「魔性の女」の最大の問題点
「魔性の女」と言われたら、あなたは嬉しいだろうか。
そうではないと否定はしても、何割かはまんざらでもなかったりするのかもしれない。説明するまでもなく、それは人を惑わす不思議な魅力。「魔性の男」という言い方はないから、あくまで女としてあっちこっちからモテまくるという意味でもあり、ある種“女冥利”に尽きるのだろう。けれども、魔性は悪魔的な意味合いを持つだけに、本人にそのつもりはなくても、悪女のカテゴリーに入れられてしまう。
映画の中の「魔性の女」は、だいたいが男を不幸にして、最後は破滅させてしまうが、これは映画的な誇張。「魔性の女」と「悪女」はそもそも別の生き物で、男の方が勝手に夢中になり悩み苦しむ、自覚なき罪人なのだ。ましてや男の方が疲れ果てて自ら離れていく、みたいなケースも意外に多く、「魔性の女」は片っ端から男を捨てたりもしない。
もちろんその一方、いきなりの心変わりで別の人を好きになってしまったりする気まぐれも、「魔性の女」の1つの定義。罪深い部分はありながらも、とても衝動的で直情的、自らの心に忠実に生きているからこそ、どこかピュアにも見え、不思議に排除されたり憎まれたりはしないのだ。
ただ、「魔性の女」の最大の欠点は、“なかなか幸せになれないこと”。無軌道に人を好きになり、無軌道にモテてしまう、そこに幸せの方程式は当てはまらない。結婚願望の強い「魔性の女」もいないはずはないが、宿命的に結婚ファーストではないからこそ、一体何が目的なのか、周りが勝手に戸惑ってしまうことにより、魔性に見えるという説もある、いずれにしても、魔性の女は幸せ至上主義ではない。恋愛至上主義だからこそ、魔性になるのだ。その結果、幸せから遠ざかるのだとしたらちょっと気の毒な存在。
そう、“幸薄い悪女”のイメージがあるからこそ、「魔性の女」と言われることにみんな抵抗するのだろう。
先ごろも、日本中を騒がせたの結婚会見で、妻となる人は「魔性の女」の汚名を返上した。日本中が羨むような幸せを手に入れた人に、もちろん魔性は似合わない。夫となる山里亮太が、この人は「魔性の女ではない」と明快に否定をしたこともさることながら、「魔性の女」があんな風にほのぼのとした幸せを勝ち取るはずがなく、だから必然的に、それは誤解だったのだねと皆が納得した。
でも、「魔性の女」と呼ばれるのは、演技派女優としては女優冥利にも尽きる事であったはず。つかみどころなく、様々なタイプの女をどこまでもリアルに演じられる演技力そのものに、魔性が感じられたのは確か。共演者との恋の噂が絶えず、恋多き女と言われたのも、才能ある演技派ほど、製作途中で本当に相手役に恋をするらしいから、それも実力のうちなのだろう。ましてや芸能界一のモテ女優と言われたことを快く思わないわけはなく、スキャンダルがらみでなければ「魔性の女」を自ら否定することもなかったはずだ。
だいたいが、「魔性の女」はなりたくてなれるものではない。だから目指すのは危険。うっかり試すと失敗する。それこそ“悪女”に見られるか、“変な女”に見られるか。そういう意味でも、蒼井 優は別格だった。本人が望んだわけではなく世間が勝手にそう思い、蒼井優と言う存在自体が神話になっていった。独身 時代は魔性を崇められながら、理想的なほのぼの結婚をする。「魔性の女」史上、ここまでのハッピーエンドはなく、これは紛れもない快挙である。